2024-03-11
3月11日を前に
東京から来た20代の記者と浜通りを訪れた。 車窓から見る町は、 かつて近づくことすら出来なくなった場所でもある。 「ここは福島第一原発がある町なんですよ」
そう声をかけて
原発事故発生後の町の状況について少しだけ説明すると、 彼はスマートフォンから目を離し 窓からの景色を熱心に眺め出した。 初めて訪れる人がすぐには気づかないほど、 「普通の景色」に近づいている場所もあるのだと思った。 能登半島地震が起きて 東日本大震災を思い出さない人はいなかったのではないだろうか。 13年経っても あの時感じた悲しみや恐怖はどこかにこびり付いたままで、 ふとした時に顔を出す。 一方で、時を経るごとに 壊れた場所は新しく造り変えられ 当時の記憶を辿ることが難しくなっている。 去年4月に、 岩手・宮城のテレビ局とともに 全国のアナウンサーに向けて震災当時の経験を話す機会があった。 私はこれまで 自分から当時の話をすることは少なかったのだけれど、 当時の映像や写真と共に 経験と反省、教訓を伝えることにした。終わった後に「これからはテレビ局の中でも、語り部のように経験を語り継いでいくべきですね」
と、参加した人から声を掛けられた。
風化はどこでも起きていて 伝える側のマスコミの中でも 教訓をつなぐことが課題になっている。
私を含め全員にとって、それぞれの立場での教訓がある。
「あの日、もっと強く避難を呼びかけていたら」
東日本大震災以来、何百回の訓練を通して改善してきた津波避難の呼び掛けは
能登の人たちの避難に役に立てたのだろうか。
地元である北陸の被災地の映像を観ながら
そんなことを考える。課題は見つかり続け、ゴールはない。
それでも、1つずつアップデートしていく。
その先に、救える命があると信じて。